僕にとってのマノクワリ(No.25)

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インドネシア、西パプア州は僕がよく行くところだ。西パプア州と言っても、これまでELNAのホームページにはあまり馴染みのない名前だけど、実は昨年州名が変わったらしい。そして、パプアニューギニア島に二つの州ができた。西パプア州の前は西イリアンジャヤ州、これまでにイリアンジャヤ州とかパプア州とか、この10年でころころ州名が変更されている。背景にはパプアの独立運動が関係しているようだ。州名の変更も大統領や統治省が変わると、それに連動するように変わっている気がする。僕には、名前を変えることで中身まで変わるのかよく分からないけど、その民族や習慣により、心の持ち方が違うのだろう。僕が最初行っていた2000年頃は、西パプア(どうもこの名称が、パプアの人たちにとっては愛着のある本来の名称らしい)の独立を勝ち取ろうという機運があった。西パプアの国旗が掲揚され、それを軍隊が阻止しようとし、死者まで出るような暴動にもなっていた。この国旗のシールがチャーターしたスピードボートに、こっそりと貼ってあったりもした。

パプアの西端にソロンという町がある。この町が僕たちのオサガメ保護活動の拠点である。町から150km東に行ったところに、ジャムルスバメディとウェルモンというオサガメの繁殖地がある。3年ほど前、アメリカが飛行機を使って、パプアの北側の海岸線全部、オサガメの繁殖状況を調べるためのエアリアル調査を行った。国際ウミガメシンポジウムで発表されたそのポスターをみると、オサガメの産卵巣が東側の方にも点在していることが分かる。でも、実際にどの程度の繁殖規模があるのか、インドネシアでは当然のごとく卵は食べられているのか、もしかして親亀も捕獲されているかもしれない。そんなことを考えながら、その地図を見ていた。もともと、東側も自分の足を使って調査するつもりでいたけれど、これによって僕の中でこの計画は具体性を持ってきた。パプアニューギニア島の地図を見てもらえば分かるけど、西側がインドネシア領、東側はパプアニューギニアという独立国家、インドネシア領の西側はちょうどニワトリの頭のような形をした半島になっており、その嘴のところがソロンの町、頭のてっぺんにジャムルスバメディとウェルモンがある。トリの後頭部のところにマノクワリという町があり、そこが東側のオサガメ繁殖地の拠点となる。昨年、マノクワリに初めて行ったとき、「こぎれいな町だけど、何ですかこの活気のなさは。」というのが素直な感想だった。

マノクワリから車で2時間ほど走ると、40kmにわたるオサガメの繁殖地の中央に位置するシデイという村に着く。東側の海岸はこの村からのアクセスできる道はないと聞いた。西側の海岸に出るのに、胸まで浸かって激流の川の中を渡渉した。この時初めて、川の恐ろしさを知った。すぐ間近に死というものを感じた。自分の歩く向きを少し変えるだけで、川に押し流されそうになる。普通なら、川の流れに逆らわずに、下流の方に向かって歩くのが一番楽である。しかし、少しでも下流を向くと膝の関節が折られるほど流れが強い。流されたら絶対に起きあがれないことは頭で十分すぎるほど理解している。膝を折られたら終わりである。上流に40度の角度で向かって、足幅を広げ、腰を落として、ガシャッ、ガシャッ、とロボットのようにゆっくりと歩く。僕とインドネシアのスタッフ、地元のパプア人の男3人で仲良く手を繋いで、川を渡っていく。手を繋ぐことの安心感や仲間意識もこの時初めて知った。川を渡り、1時間ほど歩くとサライという小さな村に着く。海岸に面した村である。やっとオサガメが産卵する海岸とご対面となった。

海岸を歩きながらオサガメやヒメウミガメ、アオウミガメ、タイマイの産卵巣を数えていく。産卵巣は犬に掘り返されて卵の殻が散在していたり、明らかに卵が取られてむなしく穴が空いたりしたものばかりである。しかし、その時の僕の気持ちは廃墟となった産卵巣を反映せずに、全く違う感覚を味わっていた。海岸を歩いていて、ものすごく気持ちがよいのである。どこまでも透き通る青い空、きらきら輝く水面、そして生命の息吹を感じる緑、果てしなく続く白い砂浜、それがそのまま僕の心の中に静かにそっと入って、満ちあふれている。海岸を歩いていて初めての感覚であった。5時間ほど歩いてムブラニという村に着く。大勢の人々が道にあふれ、太鼓の音がして、ほとんどの人が静かに泣いていた。亡くなった村人がいたのだろう、ちょうどお棺を家から担ぎ出しているところであった。僕たちは、村の端でずっとたたずんでいた。ここの村の人は、ここの自然のように透き通っていた。また、来てみたい。素直にそう思った。

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海岸にはいくつかの村があり、産卵巣に卵があれば、通りすがりに卵を取り、夜歩いてウミガメが産卵していれば、カメを屠殺して肉と卵を持っていく。当然のこととして卵やカメを食べる。しかし、彼らの卵やカメの捕獲には経済的要素は一切ない。純粋に狩猟民族として、手に入るものを自分たちの食糧として確保するだけである。弓や槍に頼って生活する彼らに、アメリカ式教育啓蒙(今では日本式でもあるかなぁ)で、「ウミガメが減っているから、卵やカメを捕るのをやめましょう。」なんてこと通じるわけがない。

ところが、である。この地域の村々を統治する地区の副代表がこの村に住んでおり、僕らの活動を聞いて、オサガメを守るプロジェクトを立ち上げてもらえないかと要請があったのである。これには素直に驚いた。海岸を歩いてみて、僕はこれまでの経験で、この地域のオサガメの繁殖規模は300巣から1000巣くらいだと判断していた。このような村にまで、経済活動が入り込み始めている。オサガメの資源回復プロジェクトは村の生活様式に大変革をもたらす。金銭が持てるものと持てざるものの格差を作る。僕には地域の人々にとってこれがよいことなのかどうか、判断はできない。給料をもらえるスタッフは、村の中でもそれなりの地位がどう抗おうとできていく。これまで、弓と槍を使って日々の食料だけを得て生活していた村の形態が、お金という手段によって、食料以外の物も手に入るようになっていく。既にこれらの地域には、伐採という形で村にお金が入っていたが、今度はそれが個人収入という格差を持った入り方をする。ただこの時は、また来てみたいと思ってはいたが、プロジェクトまで立ち上げることなんか念頭になかったし、ソロンのオサガメプロジェクト方も順風満帆というわけでもなかったので、具体的にここでプロジェクトをすぐに立ち上げるつもりはなかった。そして、村を去って行ったのである。

しかし、日本に帰り、ソロンのオサガメの産卵データがインドネシアから送られてきて、僕は非常な危機感を持った。これまでオサガメの保護や資源回復プロジェクトが成功した例はひとつもない。メキシコやコスタリカでは、20年前の5%以下まで産卵規模は減少している。絶滅寸前である。マレーシアでは既に絶滅した。カリブ海のオサガメはその繁殖地域を移動させながら、資源量を保っている。パプアのオサガメも確実に絶滅に向かって突き進んでいる。僕がオサガメを始めた7年前の産卵数は、今ではその半分にも満たない。ジャムルスバメディやウェルモンではそれぞれ、1500巣に満たない繁殖規模となっている。その意味ではマノクワリの繁殖規模はまだ確定はできないが、太平洋のオサガメ資源を考えた場合、繁殖地の保護管理は必須なものとなる。インドネシアのパプアは、オサガメ繁殖地として太平洋で最後の砦なのである。

しかし、村の生活習慣の崩壊させること、プロジェクトの資金、プロジェクトを遂行していく情熱と能力、これらのどれもが僕には欠けていた。でも、マノクワリのオサガメは僕がやらなくてはいけないのだろう。多分、それが僕の運命なのかもしれない。少し前向きになることで、プロジェクトの資金はなんとか確保でき、不安を抱えたまま、今年の6月、僕はマノクワリに向かった。二日目の夜、その出会いがあった。たまたまELNAの田中と僕、インドネシアスタッフのワヒドの3人で食事をしていると、あの副代表が店に入ってきたのである。彼は僕らには全く気づかず、会合があるらしく奥のテーブルに向かっていった。僕らはそれが終わるまで待っていた。マノクワリはパプアでも第3の都市である。何十万人もの人々が生活する都市である。それなのにこの出会いはいったい何なんだ。ぼくはまた、叫びたくなった。その夜遅くまで、僕ら4人はムブラニ村周辺のオサガメ保護プロジェクトについて話し合った。この出会いにより、僕の気持ちは充実していった。このプロジェクトをなんとしてでも成し遂げようと思った。なんとしてでも、オサガメの資源回復をやり遂げようと思った。こうして副代表のニコラスと再会を約し、2007年9月1日からマノクワリのオサガメ保護プロジェクトは始まったのである。(「僕にとってのマノクワリ」了)

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